バンドをやってみている。役者をやってみている。
そこに誇りとか、かっこいーことしてんだぜという気持ちはない。
「どんなことをしていても毎日が試験である。学校では落第点をとっても怒られるだけだったが、社会にでると落第は即ギロチンである。漫画家だろうが社長だろうがそれは一緒。フーテンは一見楽そうにみえるが、単にギロチンの落ちてくる速度がゆるやかなだけだ。みんな、生活の中でなにかしらのギロチンをあちこちに感じながら生きている。日本はギロチン社会だ。子供の頃から苦しみ、中年でのた打ち回り、老年になって歯軋りしながら死んでいく社会。日本以外の先進諸国でも基本的にかわらない。昔戦争でいったポリネシアのひとびとの世界にはギロチンがなかった。食うものはいくらでも落ちているし、暖かくて裸ですごしていた。しかし行く度に文明化して物欲が増え、今ではコンクリート、車。スーツ姿だ。」
と水木しげる先生がおっしゃっている。
そして、
「猫はすばらしい。猫は食うために働かない。」
と続ける。
まったくその通りだと思う。出来れば夕方までずるずるねて、日暮れからのそのそにたにたしながら集まってバンドしたり稽古したりして、終わったらみんなでもぐもぐわいわいとごはん食べて、じゃあまた明日あつまれたらやるかのーというような感じがいい。
まあでもとりあえず、ミクロネシアで残ったかすかな楽園に定住したりもせず、ギロチン社会で生きていくことを選択している僕は、別に他の職業となにも変わらないのだけど、何でバンドや役者とかで飯をくいたいのかといわれると、一日中バンドとかのことをぐだぐだずるぺたと考えていたいから、必然的にほかの事をしている時間がめんどくさいからであり、なぜそれをやりたいのかといわれると。こちらが逆に聞き返したくなる。
テレビゲームやサッカーをすることに理由が必要か?と。
サッカーなんで世界中が熱狂しているけど、サッカーをしらない、畑仕事しか知らなかったどこかの国のおじさんが見たら、「なにやってんの?」ってつっこまれてもおかしくないことをしていると自覚したほうがいい。
ようはなんか楽しいからやってる。缶けりやレゴブロック遊び、草野球や喧嘩やテレビゲームの延長みたいな。
僕はフルタ丸の演劇というのはくにお君の大運動会や、ボンバーマンといったテレビゲームを分岐コントローラーで大勢でやっているようなつもりでやっている。
そういう意味では真剣かもしれない。無駄にな!!ゲーム負けそうになると切れるぜ!泣くぜ!
大運動会のバトルロワイヤルやりてー!!
いわば猫がねずみをとろうとしているようなもんさ。
でも、なまけもので、南の島で一日中バナナの葉でつくったハンモックで眠りこけたいな。
そのどっちかしかやりたいことなんてないさ。