どうでもいいが太った。
幸せぶとりではない。
しかしだからといって不幸ぶとりというのも言い過ぎだ。
本来、太るという行為若しくは現象に幸せも不幸せもないはずである。
太った結果、幸せや不幸せが、太ったことを直接の原因として降りかかってくる場合、この場合の「ふとり」は
幸せだから太る幸せぶとりや、不幸せだからムチャ食いして太る不幸せぶとりとは異なる。
いわば事後幸せぶとりであり、事後不幸せぶとりなのであろう。
うーんアカデミック。
とにかくこのままではあまりよろしくない体のスタイルの、「よろしくない」と思っている部分がエスカレートてしまう。フルタ丸、役者のジム君に「いいケツしてるな」といわれた。ぷりっぷりしていれはいけないと僕は思う。誰にも言われてはいないので、根性無しといわれるかもしれないが、僕は自分のケツを自主規制しなくてはいけないと思う。
まあ僕の体にたいして今までとくに中傷されたことはないのだが。
「顔がでかい」「そりこみがすごい」「顔がねじれている」「目が笑ってない」「額がですぎ」「頬骨出すぎ」「すれちがったとき頬骨が刺さった、マジいてエ」「シーマン」等々、過去、僕に対してさまざまな顔に対するクレームは、各方面から頂いたが、それに関しては「そういうクレームは親に言ってくれ」といっておくことにしている。
親だって出来れば美男子で背も高くて頭もよくてなぜか運がよくてスポーツ万能で謙虚で誠実で才能にあふれてて、20の頃にはもう親に家買って、別荘についても検討しているような子供がほしかったに違いない。桃太郎的なやつだ。
親子ともども非常に慙愧の至りである。
まあつまり顔以外のことは「足みじけ!」ぐらいしか言われたことがない。
これについても親に言ってくれというようにしている。
さあ、自分で書いていてはなしが見えなくなってきたぞ。
とにかく太ったことにより幸せか不幸せ、おそらくどちらかが僕に降ってくるのだろう。
もしかしたらどちらも振ってこないかもしれない。
なにも起こらないのと不幸なの。なにもないなら不幸がいい。
それは日本人の考え方である。
なにもなくていいじゃんか。
暇さいこーの人の考え方である。
さらになにを書いているのかわからなくなってきた。
ここから俺は何をどう分析したかったんだろう。
アディオス。
追伸
僕の文体はきっとだれか、面白い本やブログを書く人のぱくりになっている。そんな気持ち悪さが最近あ る。知らないうちに現代っ子なのさ。
飛行機で飛んでいる彼に無性に会いたいが、彼のことを考えるだけで心が大きくなれるので助かる。
「おれは雲!自由な雲!」
という言葉を日常に真顔で言えそうな彼と、僕は一生一緒にいてくれやである。
アディオス。