下北沢のライブハウスに音源を渡した。どうなるかわかんね。
いつもの古着屋さん、「トレードマーク」に愛車、ZENRAをとめさせてもらう。
あいにくの強風で、お店の前のマネキンとか看板がゴンガラと倒れる。
直す。トレードマークの写真をアップしてみた。みんなくればいいさ。
吉祥寺の行きつけのバー(まだ四回目、銭湯!)で、LA帰りのミュージシャンとちょっとだけ話す。
オーラが出てた。沖縄出身のうるさい32歳のミュージシャンが乱入。「スカジャンは日本のロッカーの
ユニフォームだ!革ジャンなんかきるな!もがばあばば」といわれ、先日買ったばかりの革ジャンを全否定される。
彼の友達のともたろうさんはそんな彼と自分の間に挟まれ、静かにビールを飲む。映像をやっているらしい。
自分の左には長髪のゆらゆら帝国のボーカルみたいな人が座っていて、そのとなりで女の子を口説い
ている頭は薄いが顔はいけてる、なんとなくタランティーノ似の外人となにやら口論している。
外人のおっさんは「日本に18年いたらストレスではげたー!!」を売りにしている陽気な紳士だ。あやしくかっこいい。
そしてぼくは満場一致で顔がでかいということになった。
まあ、そんな夜が昨日で、そのままツタヤでナイトメアビフォークリスマスとイージーライダーを借りた。
仕事で朝から葛西の方へ行き、帰ってきて早速2つ見た。
ふたつともよかったが、特にイージーライダーは、すごかった。
1969年の作品だって?今と何が違うんだろう?
なにも変わらない。38年前の作品とは思えない。すごすぎ。
食わず嫌いをやめて、観てよかった。
自分自身にちっとも区切りがつかない。どこまでいっても衝動だけで終わるような気がする。
それを行動と勘違いして、行動力のある人間だとオレに目を見張る。そういう目にうれしさを
感じながら、むなしさに、やりきれない自分の弱さを見る。だが、自分の弱さを、知らないでいる。
見るだけで、知ることに恐怖を抱いているのかもしれない。対象があくまでも自分だから。
知ってしまうと自分の動ける範囲内がせまくなるような気がするからかもしれない。
見るだけだったら、まだ錯覚として取れるのだが、知ってしまえばそれで終わるような気がして、恐ろしくなる。
あまりにも自分に対して自信の無い自分に腹が立つときはこんな時である。
だから計算する事が、まだるっこしい。(本当は恐怖だけなのだが)言葉で説明することが、面倒くさい。
結局、衝動的な動きだけになってしまう。でもそんなときの自分ほど、素直なものはいないのじゃないかと思う。
そういう自分が、自分では好ましく感じている。
一人しかいないという寂しさから
絶えなる孤独にやりきれない思いを抱いていたのに
淋しくて淋しくてどうしようもないほど
自分をあわれに思っていたのに
大勢の中でもはや淋しくない自分なのに
忘れられた寂しさを・・・・・・・
仲間のいる中で違った意味で孤独を感じはじめる
その仲間すら、すぐ身近にいる事をひどくわずらわしいもののように思う
自分は自分のこの部屋で他人の介入を許さないよう
一人になりたいと思い始める
わがままな自分に腹が立つとき、どうすればいいのだろうか。
人の行為を直接無にするような自分をわがままだと感じながら、平気で無にする自分の行動が
素直だと言えるだろうか。
自分に忠実に動いただけのことだと言ってしまえば、それですべては終わるのだろうか・・・・・
いつもひどい後悔が自分をあわれにさせる。泣いてもわめいてもつぐなえない気がする。
いつでも、どんなときでも何の結論も出せないでいる、おのれの傲慢さにひどく不気味さを感じるのだ。
女に対して、もうただ抱くだけの女に満足できなくなってきている。
かわいい女であればいいだけではすまされなくなってきている。
女の肌を知る以前に戻りつつあるのかもしれない。
女がほしいほしいと悶えていた頃に戻りつつあるのかもしれない。
ただ、対象は肌から心へと移行する。
自分の心に成立できるやさしさと美しさを求める。
肩を抱いたまま、目をつぶっていられるような、何も考える事のいらないような、そんな漠然とした落ち
着きを求められる、そんな対象。でも、ひどいわがままだ。あまりにも独りよがりな勝手さだ。
「松田優作 遺稿」から抜粋
優作さん、とってもおおきなウサギだね。病み将軍のおとおりだ。
やっぱりいずみの水は飲めないのかもしれない。