自分は大学一年の時、たった2ヶ月だけお笑いサークル「騒動舎」にいた。
当時なんもよくわからず、同じ学部のいまでは音信不通になってしまった、武君といっしょに
明大前の小さなハコで、そのお笑い、コントサークルの公演を見た。
そこで観たのが三須さんだった。三須さんは僕が18,9年生きてきた中で、どんな小学生よりも
活発で、どんな人間よりも馬鹿だった。
ひかりかがやく太陽のようなレベルで胡散臭かった。ってかくとどのくらいすごいかわかるでしょ。
25年生きてきた今でも、あのときの三須さんを超える笑いを僕にくれた人はいない。ラーメンズでさえも超えられない。
そしてそのままそのサークルに入った。武君も入った。そこで相模にあった。新人公演に出た。やめた。
そこはあとの大学3年10ヶ月の一億倍濃かった。
まず、「授業はでるな」
「毎日酒を飲め」「バイトするな」
どうしろというのだ。三須さんはそのとき借金が200万くらいあった。
先輩たちは日本選りすぐりの変態たちで、無茶なことしか言わなかった。
劇の公演のレベルはものすごく高かった。だから、ものすごくお笑いの好きな人たちが、普段は物静かに、
真剣に舞台をつくっているのかと思った。間逆だった。彼らは舞台上よりももっと
わけわからん人生を送っていた。
明大前には、「宮古」という最高に適当な沖縄料理の居酒屋がある。
そこは、「騒動舎」のたまり場だった。酔って小便を撒き散らし、全裸になり、テーブルの上をすべる。ションベンビールに男同士でフェラチオ、よったやつの上にはリアルのうんこがあびせられ、容赦ない落書きを施される。
ビール瓶は毎日割られ、流血の中テーブルをすべる。だれもなにも気にしない。美人の先輩とか、沸けわからん奴もたくさんいる。携帯が落ちていたら、だれのかわかるかって聞いて、3秒へんじなければ真っ二つだった。なんの意味も無く。スライディングして三村さんの乳首が取れた。「俺の乳首どこ?」っていう、笑えるかどうかギリギリの(俺は大爆笑した、後日きいたからだけど、その場にいたらさすがにひくかも)こともしていた。
ジョビジョバの出身サークルだ。
僕は入るまでなにも知らなかった。
結局、武君は髭面で異国の顔立ちなので「アラブ」という名前がつき、俺はそのまま「大槻」だった。
相模も「相模」だった。名前のままだと少し寂しかったが、「ケンヂ」とよばれるよりましだった。同期にはとにかく顔だけが100年にひとりの逸材、「たごさく」とか、いつも恐ろしいほどに顔が青白くて、がりがりで、松屋とかにいくと必ずカレー牛しか食わないというなぞの生態を持つ、「ギャンブル」というやつもいた。相模とよく話しに登るが、あいつほど、今生きているかどうかリアルに心配になるやつもいない。話しかけると目が泳ぎ、基本的に変態的な動きしかしない。しかも全部素だからすさまじい。あいつのこと、一目でも見たことがあれば
きっと彼の命の心配をし、彼の言動に恐怖することだろう。笑うだろう。
あとは「ザコ」や、「つめ」、「松井」「カピバラ」「三国志」などなど。
同期はみんなヒト的に終わっていた。
僕はそんな中、いつもぶっ壊れきれずにいたが、みんなに追い詰められたとき、面白いことが出来る(起こる)ことが自他共に認められた。
相模はよって脱いで暴れた。
先輩たちは本当に面白かった。最低で、いつも腹たったけど、ぶんなぐってやろうかとも思ったけど、みんな
ほんとにリアルに毎日生きていて、それだけで、ひきこもり的な精神だった俺はすごいなって思った。
あの頃の先輩たちみたいに、自分もと思う。
馬渡さんという先輩が公演明けの朝、ごみ収集者の後ろにのっていったのは笑った。
小学校に忍び込んであほもやった。
その後、馬渡さんは沖縄で宮古島史上最高の人数(たしか14人)でワゴン車に乗り、屋根に乗っていた馬渡さんはおまわりさんに止められたときに急ブレーキした衝撃で落ちて頭を7針縫って
そのあと学校戻ってきたと思ったら1年くらい失踪した。
今は駅員さんをやっている。
たのしかったが、自分がもし同じテンションで生きたら、歯止めがきかなくなって命の危険だ、と感じてやめた。
4年間やっていたら、きっと大学は4年じゃなくて8年はいただろうし、という中退だったと思う。
でもね、結局、今また命を危険にさらすテンションになりつつあるんだよ。もうどうにでもなりやがれ。
手段のためには目的は選ばずだ!!
生きるってことはこういうことだ。目的?しらね!馬鹿じゃねーの?
ということを、あそこで教わった。
カービイ、ワッティ、ディズニー、先生、原石、とんかつ、学さん,
フェロモン。いろいろいたなあ。
みんな元気かなあ。ねえ、三須さん。
いや、あのころのあだ名で呼ばせてもらいます。
大佐!!がんばってください!
当時なんもよくわからず、同じ学部のいまでは音信不通になってしまった、武君といっしょに
明大前の小さなハコで、そのお笑い、コントサークルの公演を見た。
そこで観たのが三須さんだった。三須さんは僕が18,9年生きてきた中で、どんな小学生よりも
活発で、どんな人間よりも馬鹿だった。
ひかりかがやく太陽のようなレベルで胡散臭かった。ってかくとどのくらいすごいかわかるでしょ。
25年生きてきた今でも、あのときの三須さんを超える笑いを僕にくれた人はいない。ラーメンズでさえも超えられない。
そしてそのままそのサークルに入った。武君も入った。そこで相模にあった。新人公演に出た。やめた。
そこはあとの大学3年10ヶ月の一億倍濃かった。
まず、「授業はでるな」
「毎日酒を飲め」「バイトするな」
どうしろというのだ。三須さんはそのとき借金が200万くらいあった。
先輩たちは日本選りすぐりの変態たちで、無茶なことしか言わなかった。
劇の公演のレベルはものすごく高かった。だから、ものすごくお笑いの好きな人たちが、普段は物静かに、
真剣に舞台をつくっているのかと思った。間逆だった。彼らは舞台上よりももっと
わけわからん人生を送っていた。
明大前には、「宮古」という最高に適当な沖縄料理の居酒屋がある。
そこは、「騒動舎」のたまり場だった。酔って小便を撒き散らし、全裸になり、テーブルの上をすべる。ションベンビールに男同士でフェラチオ、よったやつの上にはリアルのうんこがあびせられ、容赦ない落書きを施される。
ビール瓶は毎日割られ、流血の中テーブルをすべる。だれもなにも気にしない。美人の先輩とか、沸けわからん奴もたくさんいる。携帯が落ちていたら、だれのかわかるかって聞いて、3秒へんじなければ真っ二つだった。なんの意味も無く。スライディングして三村さんの乳首が取れた。「俺の乳首どこ?」っていう、笑えるかどうかギリギリの(俺は大爆笑した、後日きいたからだけど、その場にいたらさすがにひくかも)こともしていた。
ジョビジョバの出身サークルだ。
僕は入るまでなにも知らなかった。
結局、武君は髭面で異国の顔立ちなので「アラブ」という名前がつき、俺はそのまま「大槻」だった。
相模も「相模」だった。名前のままだと少し寂しかったが、「ケンヂ」とよばれるよりましだった。同期にはとにかく顔だけが100年にひとりの逸材、「たごさく」とか、いつも恐ろしいほどに顔が青白くて、がりがりで、松屋とかにいくと必ずカレー牛しか食わないというなぞの生態を持つ、「ギャンブル」というやつもいた。相模とよく話しに登るが、あいつほど、今生きているかどうかリアルに心配になるやつもいない。話しかけると目が泳ぎ、基本的に変態的な動きしかしない。しかも全部素だからすさまじい。あいつのこと、一目でも見たことがあれば
きっと彼の命の心配をし、彼の言動に恐怖することだろう。笑うだろう。
あとは「ザコ」や、「つめ」、「松井」「カピバラ」「三国志」などなど。
同期はみんなヒト的に終わっていた。
僕はそんな中、いつもぶっ壊れきれずにいたが、みんなに追い詰められたとき、面白いことが出来る(起こる)ことが自他共に認められた。
相模はよって脱いで暴れた。
先輩たちは本当に面白かった。最低で、いつも腹たったけど、ぶんなぐってやろうかとも思ったけど、みんな
ほんとにリアルに毎日生きていて、それだけで、ひきこもり的な精神だった俺はすごいなって思った。
あの頃の先輩たちみたいに、自分もと思う。
馬渡さんという先輩が公演明けの朝、ごみ収集者の後ろにのっていったのは笑った。
小学校に忍び込んであほもやった。
その後、馬渡さんは沖縄で宮古島史上最高の人数(たしか14人)でワゴン車に乗り、屋根に乗っていた馬渡さんはおまわりさんに止められたときに急ブレーキした衝撃で落ちて頭を7針縫って
そのあと学校戻ってきたと思ったら1年くらい失踪した。
今は駅員さんをやっている。
たのしかったが、自分がもし同じテンションで生きたら、歯止めがきかなくなって命の危険だ、と感じてやめた。
4年間やっていたら、きっと大学は4年じゃなくて8年はいただろうし、という中退だったと思う。
でもね、結局、今また命を危険にさらすテンションになりつつあるんだよ。もうどうにでもなりやがれ。
手段のためには目的は選ばずだ!!
生きるってことはこういうことだ。目的?しらね!馬鹿じゃねーの?
ということを、あそこで教わった。
カービイ、ワッティ、ディズニー、先生、原石、とんかつ、学さん,
フェロモン。いろいろいたなあ。
みんな元気かなあ。ねえ、三須さん。
いや、あのころのあだ名で呼ばせてもらいます。
大佐!!がんばってください!
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