ぞっとする、と昔思っていた。
で、フルタ丸はぜんぜんぞっとしねーな、何でだろう、演劇に免疫できたのかなとかすこし思ってたが、
やっぱぞっとした。
だめなもんはだめらしい。
なんというか「そういうのはお客さんにこの場の雰囲気をよくさせるように要求してるみたいじゃないか」みたいなことが多くて、疲れる。
全部自分たちがだしたいものだして、受け手に丸投げする覚悟が感じられない。「自分たちは所詮ここまでですが、死ぬ気でがんばりました、さあ笑って笑って、ないて感動してください、何かを感じ取ってくださいよ」って擦り寄ってくる感じがぞっとするんだ。
なんとなく、おしゃれにもかっこよくもなれなかった男女が、コミュニケーションが一般的な人と違ってしまってなじめなかった人たちが、新たな価値観をむりやり見出してかっこつけてるような、文科系の痛々しさ。そういうのを感じてしまう演劇はぞっとする。ひねた根性、斜に構えた感じ。その裏にあるコンプレックス。
それよりも、コンプレックスもむき出しで、ひねた根性もむき出しで、でも斜にだけは構えない感じ、がいい。
「うら、このやろう!まんまと観にきやがって、だまされてやんの!これでもくらえ、ちくしょーめ!馬鹿にするならしやがれ、これが俺たちだごらー!!!」みたいな、お客さんに全部判断ゆだねる表現のほうがいい。いちいちラーメンの食い方説明してくるようなラーメン屋なんか絶対いかねー。
客の自由だコラ。
ヤルほうもヤラれるほうも依存しない関係がいい。
そしたらきっと一緒にイケる。
フルタ丸には演劇的約束事が感じられない。
多分、主宰を含め、みんな「え?」「は?」「きいたことないなあ」みたいな専門用語とか、現代の日本と世界の演劇の常識や流れとかいっぱいあると思う。
だからお客さんも戸惑うんだろうなあ。
「こんなの演劇じゃない」「異質な感じがする」
あたりまえですよ、演劇じゃない。「フルタ丸」ですから。
「脳みそ足りない素人集団」といわれ続けたい。
楽しいだけじゃだめだなんて思って、お客さん重視でものを作って、プロを気取るなら
僕はやめたほうがマシだ。いわゆるいろんな人が言う「演劇のプロ」ってやつにはなれるかもしれない。でも「人生のプロ」にはなれないと思う。「人間のプロ」じゃないと思う。みんな最初は心底楽しいからやってたはずなのに、いつのまにか「サラリーマン演劇人」になってる。型にはまってく。なんでそこで我を通さないんだろう。
本当のプロは、自分が心からやりたいことを心底楽しんでやるやつのことをいう。
ひとから、客からどういわれようと関係ない。もう自分が最高に楽しいんだから。それがやりたかったんだから。
楽しむためならうんこでも泥水でもくってすすってやるよ。
そしてきっと、100%楽しんでる、感動してる人の姿に、人は感動するんじゃないかと思う。
子供の頃、かんけりやったりおにごっこしたりした時に手を抜くなんてありえなかったように、
大人がほんきで遊んだらそれが仕事になる。
そーいうことを、いろいろと気づかせてくれた人たちが、フルタ丸だ。
演劇も音楽も他の仕事とえらそうに区別したがる人がいるけど、そんなだいそれたもんじゃない。うまいトーフ
つくりたい豆腐やさんと、空を飛びたいパイロットと、なんにもかわらない。ほんきで遊べるかどうか。
自分のやりたいことをやるのに人に伝えるためにねじまげたらもったいないじゃん。
結局相手にはねじまがったものしか伝わらないんだし。まあ、ねじれたのをまっすぐ受け止めてくれたり
することもあるだろうけど。
結局相手がどう受け取るかなんて自分が決められるものじゃないんだから、やりたいようにやればいい。
いくら馬鹿にされても「俺は、これ、やるわ」って幸せそうにへらへら笑ってるやつになりたい。
まー基本的にどーでもいーとおもってるわいなー
あーめんどくせーことを書きまくったぜひゃっほーい!
えらそーだなー俺。めんどくさいし、うざい。なにが「もったいないじゃん」だよ、
だれに向かって言ってんだよ、日記だろうが。きもいなーでも消さない。くそっ。
中途半端なもんは自分にゆるされないぞちくしょー
今自分が中途半端なことするんならいっそ死んだほうがマシだ。
くだらねえうるせえぞ、俺。
で、フルタ丸はぜんぜんぞっとしねーな、何でだろう、演劇に免疫できたのかなとかすこし思ってたが、
やっぱぞっとした。
だめなもんはだめらしい。
なんというか「そういうのはお客さんにこの場の雰囲気をよくさせるように要求してるみたいじゃないか」みたいなことが多くて、疲れる。
全部自分たちがだしたいものだして、受け手に丸投げする覚悟が感じられない。「自分たちは所詮ここまでですが、死ぬ気でがんばりました、さあ笑って笑って、ないて感動してください、何かを感じ取ってくださいよ」って擦り寄ってくる感じがぞっとするんだ。
なんとなく、おしゃれにもかっこよくもなれなかった男女が、コミュニケーションが一般的な人と違ってしまってなじめなかった人たちが、新たな価値観をむりやり見出してかっこつけてるような、文科系の痛々しさ。そういうのを感じてしまう演劇はぞっとする。ひねた根性、斜に構えた感じ。その裏にあるコンプレックス。
それよりも、コンプレックスもむき出しで、ひねた根性もむき出しで、でも斜にだけは構えない感じ、がいい。
「うら、このやろう!まんまと観にきやがって、だまされてやんの!これでもくらえ、ちくしょーめ!馬鹿にするならしやがれ、これが俺たちだごらー!!!」みたいな、お客さんに全部判断ゆだねる表現のほうがいい。いちいちラーメンの食い方説明してくるようなラーメン屋なんか絶対いかねー。
客の自由だコラ。
ヤルほうもヤラれるほうも依存しない関係がいい。
そしたらきっと一緒にイケる。
フルタ丸には演劇的約束事が感じられない。
多分、主宰を含め、みんな「え?」「は?」「きいたことないなあ」みたいな専門用語とか、現代の日本と世界の演劇の常識や流れとかいっぱいあると思う。
だからお客さんも戸惑うんだろうなあ。
「こんなの演劇じゃない」「異質な感じがする」
あたりまえですよ、演劇じゃない。「フルタ丸」ですから。
「脳みそ足りない素人集団」といわれ続けたい。
楽しいだけじゃだめだなんて思って、お客さん重視でものを作って、プロを気取るなら
僕はやめたほうがマシだ。いわゆるいろんな人が言う「演劇のプロ」ってやつにはなれるかもしれない。でも「人生のプロ」にはなれないと思う。「人間のプロ」じゃないと思う。みんな最初は心底楽しいからやってたはずなのに、いつのまにか「サラリーマン演劇人」になってる。型にはまってく。なんでそこで我を通さないんだろう。
本当のプロは、自分が心からやりたいことを心底楽しんでやるやつのことをいう。
ひとから、客からどういわれようと関係ない。もう自分が最高に楽しいんだから。それがやりたかったんだから。
楽しむためならうんこでも泥水でもくってすすってやるよ。
そしてきっと、100%楽しんでる、感動してる人の姿に、人は感動するんじゃないかと思う。
子供の頃、かんけりやったりおにごっこしたりした時に手を抜くなんてありえなかったように、
大人がほんきで遊んだらそれが仕事になる。
そーいうことを、いろいろと気づかせてくれた人たちが、フルタ丸だ。
演劇も音楽も他の仕事とえらそうに区別したがる人がいるけど、そんなだいそれたもんじゃない。うまいトーフ
つくりたい豆腐やさんと、空を飛びたいパイロットと、なんにもかわらない。ほんきで遊べるかどうか。
自分のやりたいことをやるのに人に伝えるためにねじまげたらもったいないじゃん。
結局相手にはねじまがったものしか伝わらないんだし。まあ、ねじれたのをまっすぐ受け止めてくれたり
することもあるだろうけど。
結局相手がどう受け取るかなんて自分が決められるものじゃないんだから、やりたいようにやればいい。
いくら馬鹿にされても「俺は、これ、やるわ」って幸せそうにへらへら笑ってるやつになりたい。
まー基本的にどーでもいーとおもってるわいなー
あーめんどくせーことを書きまくったぜひゃっほーい!
えらそーだなー俺。めんどくさいし、うざい。なにが「もったいないじゃん」だよ、
だれに向かって言ってんだよ、日記だろうが。きもいなーでも消さない。くそっ。
中途半端なもんは自分にゆるされないぞちくしょー
今自分が中途半端なことするんならいっそ死んだほうがマシだ。
くだらねえうるせえぞ、俺。
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