文章でも喋りかたでもそうだけど、
とにかくスマートな人はいい。
落ち着いてものを考え、確かな思考過程を経て導き出したという自信に裏打ちされた、余裕のある語り口は
聞く人をひきつけるし、それが対話の場合は、自然とこちらの思考も鮮明になっていく気がする。
なので、そういう人に僕はいつも憧れと尊敬の念を感じているのだけれども、
なにかにつけてコンプレックスを抱きがちな僕は、そういった人物には逆立ちしてもなれそうにない。
逆立ちしたって、せいぜいパンツのポケットからレシートがひらひら落ちるぐらいしか変化はないだろう。
僕は恥ずかしながら25年生きてきて、未だに解けない謎があるのだが、それは、堂々として独特の雰囲気のある方々の「余裕」は、いったいどこからくるのだろうということである。
膨大な知識の量からくるものに違いない、とにかく博識になることが自分の度量を大きくするのだ、と判断し、自分に興味の無い物理科学の本まで読んだ時期があった。
結果、いろいろな分野の概観や、さまざまな事象についての寛容さは有る程度身に付いたかもしれないけれども、物理はもっと嫌いになったし、肝心の度量はどうなったかというと、
未だに人とは目をどのぐらい合わせて喋るか、常に考えながら会話しているし、
そのためか相手の話を聴けていなかったり、自分が何をいいたかったのか、途中まで喋った時点で目的地を見失ってしまったりするのである。
結果、中途半端に広くて極端に浅い世の中に対する見識と、中途半端なアカデミックさとそれにたいする薄っぺらな自負心、目指していた自分と現状の自分とを比較するにつけ、未だ成されない自分自身像に自分でコンプレックスを抱えることになってしまった僕なのである。笑ってしまう結果だが、今有るコンプレックスの上にさらにもう一枚上乗せしただけになってしまったのだった。
このまま、さらに自分にコンプレックスを感じている自分に、コンプレックスを感じていくことになるわけだが、あまりにもコンプレックスが多重層になってきているためか、もともとのコンプレックスの地形がどんな形をしていたか、思い出すにも時間がかかる。
こんなわけで、当分「余裕」のオーラが僕から発せられることはないと思うと、ちょっと憂鬱になる。
生き方を示唆する本が売れる時代に、僕もしっかり合致している。